赤坂氷川神社
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ご由諸  
【御祭神 お祀りしている神様】
素盞鳴尊(すさのおのみこと)
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
大己貴命 (おおなむぢのみこと)



―御神徳―
素盞鳴尊は、天照皇大神の弟神で、ヤマタノオロチを退治したことで有名です。勇猛果敢にして優しき御性格により災厄を祓い退ける「厄除け」、奇稲田姫命と結ばれたことで「良縁・縁結び」「家内安全」の御神徳ありとされております。
大己貴命は、別名「大国主命」で商売繁盛の御神徳があるといわれております。

撮影:中島優子
神幸祭 【例祭日】
9月15日
※隔年に神幸祭(各町神輿連合渡御)


【氏子地域】 ▼地図を表示
元赤坂1丁目・2丁目
赤坂1丁目〜9丁目
六本木1丁目・3丁目・4丁目の一部
虎ノ門1丁目1番
【由緒・沿革】
立の起源は、古い書物によると、天歴5年(村上天皇 951年)武州豊島郡人次ヶ原(俗称…古呂故ヶ岡・赤坂4丁目一ツ木台地)に祀られました。
これよりおよそ百年後の治歴2年(後冷泉天皇 1066年)、関東に大旱魃が発生、降雨を祈るとその霊験(しるし)があり、以来よく祭事が行われました。

戸時代、幕府の尊信は篤く、八代将軍 徳川吉宗公が享保元年(1716年)将軍職を継ぐに至り、同14年(1729年)に老中岡崎城主水野忠之に命じ、現在地(豊島郡赤坂今井台)に現社殿を造営、翌15年(1730年)4月26日に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われ、28日に将軍直々の御参拝がありました。
以後十四代家茂公まで歴代の朱印状(※港区文化財)を下附され、一層の御神徳を高め、開運・厄除・良縁の鎮守神として尊崇を深められました。

 『江戸名所記』によると―
 「 むかし人王62代村上天皇の御宇天暦年中に近江国甲賀の郡に蓮林僧正として天台四明の法灯をかかげて一念三千の観行をこらす上人あり、東国修行のついでこの所に一夜をあかしける、その夜の夢にいづくともしらず老翁1人来りていわく、我はこの土中にうづもれて久しく年をつもれるものなり、いそぎ掘出して安置せしめばこの所の守護神となるべし、その埋もれし所には奇瑞あるべしと見て夢はさめにけり。

 上人奇異のおもひをなしそのあたりをめぐるに一所の壇上に金色の光りあり、いそぎほりてみれば十一面観音の形像おわします。やがてそのところに社をたてて安置せしめらる、一木村の観音と名づけて諸人まいりつどう。きわめて利やくおおし。
  
 蓮林遷化の後治暦2年ひのえ午にあたって関八州のうち夏より秋にいたり大にひでりす。万民うれえをいたしけるに、当所の土民このやしろに雨をいのるに、たちまちに洪雨ふりくだって五こくゆたかにみのり民よろこびのまゆをひらきけり、これ雨をくだして川をなし万民をたすけ賜る、故にすなわち神とあがめ、氷川の明神と名付けたてまつる。神事は6月15日や、今に及びなおこの神徳たかくおわしまして諸人の願望をかなえ賜うぞ有がたき。

  くみてしる 氷川の宮の 神こころ
     めぐみあらたに世をうるうとは(江戸鹿子)」

各地の氷川神社との関係について
各地に「氷川神社」がありますが、どのような関係があるのでしょうか?

社本庁のデータによると、「氷川」の名の付く神社は全国で261社あり、内訳は―埼玉県に162社、東京都に68社、福井県に12社、福島県に5社、茨城県・栃木県・神奈川県・山梨県・島根県にそれぞれ2社、北海道・千葉県・長崎県・鹿児島県にそれぞれ1社となっており、関東を中心に鎮座、荒川流域に多く分布しています。

川神社の本社は埼玉県の大宮に鎮座する旧官幣大社・武蔵国一ノ宮の氷川神社で、ここから御霊(みたま)を分け(ご分霊)、各地に氷川神社が祀られました。そのため原則どこの氷川神社もご祭神は同じです。

雲の氏族であった武蔵氏が武蔵国造(くにのみやつこ)となって移住した時期、氷川の信仰が広く祀られたといわれています。「氷川」の名は、出雲の簸川(ひかわ・現在の斐伊川)の名に因むものといわれ、農業用水として大きな恩恵を受ける一方、水害にも悩まされた荒川を簸川に見立て、畏敬の念をもって信仰していたと考えられます。

川に沿って分布している関東の神社としては、他に香取神社・久伊豆神社があります。それぞれ元荒川・利根川という大河川に沿って、お互いに境界を侵すことなく祀られています。氷川神社が祀られた村々はその成立が比較的古く、多くは関東ローム層の丘陵地帯に位置し、森林を開墾し谷の湿地を水田とした農村であり、久伊豆神社は元荒川、香取神社は利根川に沿って分布しますが、この地域は十世紀以降開拓された米作地帯で、度々洪水にみまわれた低湿地であると推定されているようです。

『江戸七氷川』について
 江戸府中の旧事及び江戸の古跡などを記した『望海毎談』(著者不明。成稿は元文(1736〜41年)から明和(1764〜72年)の間といわれています。)という書物に、以下のような記事があります―

望海毎談に云、氷川明神、江戸の中に七所有、赤坂御門外の社、江戸にては年久し、元大宮の近くに小呂子と云所、氷川を祀りたりし社なり、此所より遷したる所なれば、赤坂の宮居を小呂子の宮と呼びたるを、誤て小六の宮といふ、素盞男尊根の國に追せられ、手摩乳足摩乳が家に入給ふ所を、日の川上といふ所なれば、日の川上といふ詞を以て氷川と呼で素盞男尊を祭りたる神なり、大貴己命は素盞男の御子なりと申より此神は此地神の祖なるを以て、氷川の神靈には相共に祠る、世人大貴己命計を祠り申と覚へたり、(―中略―) 此外今井の盛徳寺の内の氷川の社、麻布一本松の市中の社、羽根田村にて新堀近き所の社、下渋谷にて羽根田の屋敷の社、又北の方にては上水のはたなる萬年寺山の社、巣鴨の入口なる氷川の社頭は坂より上へ見上ぐる所にして、いとかうかうしく何も氏子多く賑ふなり

@赤坂御門外 当神社遷座前のお社のことです。
A今井の盛徳寺 元氷川坂(現:本氷川坂)の盛徳寺(現:神奈川県伊勢原市)の敷地内にあり、当神社に勧請されました。
B麻布一本松 現在の麻布氷川神社のことです。天慶五年(938)源経基東征の時、麻布一本松付近に勧請しました。文明年間太田道灌ともいわれます。万治二年(1659)、芝増上寺の隠居地になるに伴い、現在地に遷座しました。麻布の総鎮守のお社です。
C羽根田村 (調査中)
D下渋谷 現在の渋谷氷川神社のことです。明治22年以前、渋谷村は上渋谷・中渋谷・下渋谷に分かれていました。慶長十年に記された「氷川大明神豊泉寺縁起」によると景行天皇の御代の皇子日本武尊東征の時、当地に素盞鳴尊を勧請したとあります。
E萬年寺山 (調査中)
F巣鴨の入口 文京区千石の簸川(ひかわ)神社のことです。もとは小石川植物園の地にありましたが、承応元(1652)年に、徳川綱吉の白山御殿が造営されることになり、同じ地にあった白山神社と共に移転しました。簸川神社が現在地に移ったのは元禄十二(1699)年です。


 ▲江戸期の氷川神社


 ▲境内の紅葉(12月上旬)


 ▲雪景色


 ▲楼門


 ▲手水舎


 ▲狛犬


 ▲男段


 ▲女段


 ▲神輿庫
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